とくしまの歴史散歩

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小室信夫( こむろ のぶお )

 

16リンカーン

江戸時代末期に丹後国与謝郡岩滝村(現在の京都府宮津市)に小室信夫( こむろ しのぶ) という人物がいました。
  彼は生糸縮緬商を営む豪商・山家屋の家に生まれましたが、尊皇攘夷運動に加わり、京都等持院の足利氏(尊氏、義詮、義満)の像の首を三条河原にさらします。(足利将軍木像梟首事件)
 この木像の傍らに高札が立てられ、足利将軍は「逆賊」であるため、この木像の首をはねて梟首すると書かれていました。徳川幕府は足利氏と同じ源氏系であるため、足利氏になぞらえて徳川幕府を非難したものでした。そして、この高札の文章を起草した人物が、小室信夫であったと言われています。
 京都守護職の松平容保は激怒し、徹底的な、捜査・捕縛を行うよう命じます。
 小室信夫は、追われる身となり、四国・九州などを転々としますが、逃げおおせないと悟り、京の徳島藩邸(現在の京都産業会館あたり)に逃げ込みます。
 これは、一緒に逃げていた仲間が、たまたま徳島出身であったためでした。
 しかし、徳島藩にすれば迷惑な話で、その取り扱いに困り幕府にお伺いをたてますが、「貴藩にて預かれ」というものでした。徳島藩では小室信夫を5年ほど外出も許さず幽閉します。
 ところが、明治維新となり状況が一変します。維新後は、討幕に功労のあったものが重用される時代となり、明治政府からも、有用な人材を出仕させよとの命令が、各藩に出されます。
 ところが、徳島藩は佐幕派で薩長に橋渡しができ、明治政府良好な関係が保てる適当な人材がいませんでした。そこで、目をつけたのが、幽閉中の小室信夫でした。
 彼は倒幕派からすれば、「足利将軍木像梟首事件」という輝かしい経歴があったのです。
 徳島藩は、小室を釈放し、藩の家老級という破格の待遇を与え、徳島藩士として新政府に出仕させました。彼の人生は急展開していきます。
 彼は岩鼻県(今の群馬県)の知事になった後、後述の庚午事変のときには、徳島藩の大参事(現在の副知事)として事態の収拾に当たりました。
 明治5年には、元徳島藩主・蜂須賀茂韶に同行して、イギリスへの立憲制度を視察して帰国しましたが、これがさらなる飛躍へと繋がります。
 1874年(明治7年)政府に対して、板垣退助、江藤新平らと一緒に国会の開設を求める「民撰議院設立建白書」が提出しますが、この文案を起草したのが、小室信夫でした。
 また、徳島を地盤とする政治結社の「自助社」を設立しますが、過激な言動で政府を批判したため解散させられてしまいます。
 その後は実業界に身を転じて、銀行(第百三十国立銀行)や鉄道会社(京都鉄道)、運輸会社(共同運輸:現在の日本郵船に統合)など多くの会社を起業するなど活躍しました。

 

民選議員設立建白書

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